1月8日
空港から実家に向かうまで降り続いてた雪は、町内会のひとが集まり、だいたいの葬儀の日程が決まり解散した、夜7時になってもまだ降っていた。
幼馴染みの母親は、一時期の疎遠さを経て、私の母親と再び仲良くなっていたようで、最寄り駅から母の携帯に電話をしたら彼女が出た。
膝の半月板に水が溜まり、その処置をすると言っていた日が父が亡くなった日だったので、母のことが心配でしょうがなかったが、彼女が居ると言うことで安心した。
後に聞いたら半月板の処置は出来たそうだ。そのせいで、なかなか父の遺体が病院から出発出来なかったそう。
日程と共に決まったのは、町内会のトラクター持ちの農家たちによって、我が家の前が雪かきされること。
闇夜に輝くトラクターのライトの格好良いこと。
雪がもっさり積もった母の車を車庫に入れる時、少しこすってしまった。
火葬するまで線香の火をたやしてはいけないのが仏教の教えらしく、そのための長時間持つ蚊取り線香さながらの線香を燃やしつつ、母と仮眠。
1月9日
納棺。
弟も来て、普段から母と住んでいる姉と合わせて、家族が全員揃った。
弔問客用のお菓子やつまみや漬物の買い物と一緒に、父の棺に入れる、生前好きだった、いかのくんせいを買う。
棺にそれが入ってるのを見て、母が「お父さん、これ好きだったもんね」と言ってくれて、間違ってなかったんだと嬉しくなった。そして泣いた。
1月10日
火葬。
そしてこの日、新聞のおくやみ欄に父のことが出たので、火葬の前のお経の間も電話が鳴りっぱなしだった。
ところで仮通夜というものを火葬の夜かな?まで、毎晩していたが、それって北海道だけ?などと考えていた。
家では普段着でお参りするので、パーカのポケットにいつも数珠が入っていた。
六文銭代わりと言われる、棺桶に入れた十円玉が焼けたものはお守りとして持っても良いらしい。
要る人は、と葬儀屋に問われたので、手を上げた。
父の、形がなくなってしまった。
父は、居るのに。
私の中に。
また会える時を心待ちにして、骨を家に持って帰った。
*
これを書いている今日、仕事が上手く行かず、他人から見たら小さな失敗を気にして落ち込み、父のことより落ち込んだかも、と思った。
でも、それが生きてるということなんだと思う。